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グレン・グールド 銀盤のエクスタシー
2008年11月20日 (木) | 編集 |
 NHK教育テレビ 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 語り手:宮澤淳一
「グレン・グールド 銀盤のエクスタシー」 

【第1回 伝説の誕生】
 ピアノ演奏の異端児と呼ばれたグレン・グールドは、カナダのトロントで1932年に生まれ、22歳のときにアメリカデビューを果たす。1955年、アメリカでの初レコーディングは、プロデューサーの反対を押し切っての「バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年)」。
 レコーディングの際に、グレン・グールドは4本の足の長さを調節できる折りたたみ椅子を持参し、演奏前には約20分お湯に手を浸して演奏に備えた。周囲はこの様子をいぶかしがったが、演奏が始まると、圧倒的なスピード感と叙情性でバッハのイメージを一変させる演奏であり、そのとき歴史的名盤が誕生した。

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バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年)

【第2回 コンサートは死んだ】
 デビュー後名声を博したグレン・グールドは、各地で演奏活動を行っていたが、1964年32歳のときに一切のコンサート活動を中止することになる。コンサート活動を行わなくなった理由として、「音楽は見世物ではない」「孤独の中で1人音楽に没入したい(聴衆は邪魔)」「演奏は恋愛である。(人に見せたくない)」などと考えるグールドの信条が挙げられる。
 1962年、「拍手は醜悪な騒音」としか聞こえないグールドは、拍手禁止をコンサートで実行する。また、同年4月には、カーネギーホールでのバーンスタイン指揮、NYフィルとの「ブラームス : ピアノ協奏曲 第1番」では、演奏開始前にバーンスタインによる観客に向けてのアナウンスが行われた。「グールドとは意見が合わなかった。どちらがボスなんだろう」という内容の告知である。グールドは極端に遅いテンポで、曲の細部まで聴かせようとする演奏を頑として譲らなかったのである。
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ブラームス : ピアノ協奏曲 第1番

【第3回 逆説のロマンチスト】
 グールドの演奏には二面的な特徴がある。「ロマンティック」と「エキセントリック」という両極端な特徴である。スクリャービンやブラームス:間奏曲集での演奏のように、おぼれるように情感をうたいあげる「ロマンティック」な演奏もあれば、モーツアルトではけた外れに速く、強弱を無視した「エキセントリック」な演奏を行い、モーツアルトからかつてなかったような面白さを引き出す演奏であったとも言われる。
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ブラームス:間奏曲集
 

【第4回 最後のゴールドベルク】
 グールドは死の前年に、ニューヨークのスタジオで26年ぶりの「バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年)」の再録音を行う。久しぶりに昔のレコードを聴き直して、「テンポが速すぎて心の慰めにはならない」と感じていたグールドの再録音は、1音1音かみしめるような孤高の音楽家の姿が投影された歴史的名盤となって結実した。
 グールドが晩年に愛読した書物は、夏目漱石の「草枕」。何十回も読み返して心の支えにしてきたそうである。
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バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年)

【蛇足:もうやだとグールド】
 ヤマハがオーディオ製品の発売を始めて間もない頃、家にヤマハのセールスマンが来て、「1月1000円ずつで構わないので積み立ててステレオを購入しましょう」ってことで、毎月家に集金に来ていました。あるとき母が留守のときに、ちゃぶ台返しが得意技の頑固な祖父が、ヤマハのセールスマンに応対しました。「なんだ、1,000円ずつこそ泥みたいに取りに来るんじゃねぇ。」と一喝して追い返してしまったのです。母もその後で祖父に叱られまして(^_^;)、「けちけちしたことしてるんじゃねぇ」と徹夜で怒られてしまったのです。
 それなら「残り金額を一挙に払って、ステレオを買っちゃえ」ってことで、案外早くステレオが入手できたのです。そのときのサービスで、LPを1枚つけてくれる約束になってまして、母は何を思ったか、グールドの「モーツァルト:ピアノ・ソナタ」を希望したのでした。我が家で最初に手に入れたLPがグールドのモーツァルトなんですね。
 グールドのモーツァルトと言えば、上の番組でも言っていたように「偶像破壊」的なエキセントリックな演奏です。小さい子が最初に聴くLPとしては決してふさわしくない感じですよね(^^ゞ 真似して弾いて、ピアノの先生に注意された記憶があります(>_<)
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モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集

 三つ子の魂ではないですが、幼児体験的なものから、ヤマハのオーディオには絶大の信頼を寄せてた時期がありまして、リニアトラッキング(アームが水平移動するもの)式のレコードプレーヤーPX-3(写真はこちら)を大枚はたいて購入したり、スピーカーなら、BOSE、JBL、ALTECよりNS-1000(写真はこちら/真の名器と信じてました)というヤマハ信者だった時代がありましたね。

オーディオもハンディ・コンパクトが主流となり、オーディオマニアは時代遅れ的な存在になっちゃいましたね。たとえば、ミニコンポのスピーカーケーブルをモンスターケーブル(1m1000円程度)に変えるだけで、音は一変しますよ~(^_^)/ キモイって思われるのがオチかもしれませんが・・(>_<)
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ジャンル:音楽
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番に隠されたメッセージ
2008年07月08日 (火) | 編集 |
NHK教育 知るを楽しむ この人この世界 8回放映
「悲劇のロシア ドストエフスキーからショスタコーヴィチまで」 亀山郁夫

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 前半4回はドストエフスキーの描いた人間の傲慢さをテーマに、後半4回は、スターリン独裁時代と4人の芸術家の関わり方を取り上げています。4人の芸術家とは、マヤコフスキー(詩人)、ブルガノフ(作家)、エイゼンシテイン(映画監督)、ショスタコーヴィッチ(作曲家)の4人です。
 
 ここでは、ショスタコーヴィチを取り上げて、自分なりに紹介してみます。
 30年続いたスターリン時代は、大粛清と呼ばれる反対派に対する弾圧が行われ、ロシアで芸術家として生業を立てるためには、独裁政治に表面上屈服し、革命を礼賛する方向性を余儀なくされていました。ショスタコーヴィチは、オペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」が上演禁止となり、「人民の敵」との烙印が押され、起死回生を期して発表した交響曲第5番により名誉を回復します。

 【交響曲第5番「革命」は、革命礼賛の音楽か?】
 ショスタコーヴィチは、権力に心から服従・屈伏していたのでしょうか。
 実は、そうではないようなのです。

 ビゼー作曲「カルメン」より「ハバネラ」を聴いてみてください。
 カルメンが歌う中、挿入的に周囲がコーラスで”Prends garde a toi!”(危ないよ/信じるな)と何度か叫びます。(ADEF=ラレミファ)というフレーズです。


 ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章では、冒頭でまず提示され、クライマックス部でもたびたび繰り返される、(ADEF#)のフレーズは、カルメンのハバネラの「危ないよ」のフレーズ(ADEF=ラレミファ)を土台にしたものと考えられます。
 しかも、4楽章終末部では、A(ラ)の音が252回繰り返されます。亀山説によれば、Aはロシア語で(私)を意味する言葉だと解されますし、ショスタコーヴィチ本人もインタビューで「Aの音は私だ」と力強く答えているそうです。

 お急ぎでなければ、ショスタコーヴィチ第5番第4楽章終末部の演奏をお聞きください。
 1つ目は冒頭で(ADEF#)のフレーズが出てきますので、それだけ聴いたら、2つ目にどうぞ。
 ララララ・・と続く中(ADEF#)が繰り返されて終局へと向かいます。
 (パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団)





 つまり、A(ラ)の音の繰り返し=「私」  (ADEF#)=「信じない」
 「私は、革命(現政権)を信じない」というメッセージなのです。
 心まで腐ってはいないんだぞという芸術家の魂・矜持が、悲痛な叫びとして聴こえてきます。

 別の解釈として、「愛の音楽」とみる説もあるそうです。当時ショスタコーヴィチが恋した女性リーリャ(ロシア語で「リャ」は「ラ」を表す)に対するラ音の252回の繰り返し。さらに、リーリャは映画監督R・カルメンと結婚したのだそうです。そんなことから、ショスタコーヴィチの愛の叫びともとることができます。
 いずれにせよ、革命賛歌という表面を持ちつつも、「そんなことチャンチャラ可笑しいわい」とばかりに、愛の訴えをしているとしたら、それも本心からの屈伏・服従とは程遠いということになりそうです。

 今回は5番についてのみ取り上げましたが、ショスタコーヴィチには交響曲7番・10番などにも権力批判をこめた「二枚舌」的な解釈ができる要素が多々あるそうです。それらについても、機会があったら紹介してみたいと思います。

 今年はショスタコ5番は、読響の演奏で聴きました(記事はこちら)。私にとっても思い入れの大きいこの曲。名盤と言ったら、ロジェストヴェンスキーとスヴェトラーノフとかでしょうか。選定できるほどにはまだいたってません。勉強不足です(^^ゞ 上のN響も快演ですね。歓声に応えるコンマス堀正文氏を始め、皆がいつになく満足そうな表情です。
 
 ショスタコーヴィチの第5番は、略して「タコ5」ということもあります。「ツウですな~」ってほんまかいなε=(/*~▽)/

 全くの余談ですが、当方高校時代に吹奏楽部でクラリネットをやっておりまして、この5番の4楽章を演奏したことがありましたね。入部したきっかけは、ステージ上でみた先輩にあこがれて・・という不純な動機。でもオネエタマは3年生だったのでコンクールのときに会ったくらいで、言葉もひとことふたこと交わしたくらいでした(号泣)。「意味ねぇじゃん!」(激汗)
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映画王国・京都 カツドウ屋の100年 
2008年06月26日 (木) | 編集 |
映画王国・京都 カツドウ屋の100
NHK教育:「知るを楽しむ」歴史に好奇心(計4回放映)

映画監督の中島貞夫氏の司会で紹介された京都を舞台にした日本映画の100年史。日本映画は、マキノ家を軸として動いてきたという側面をしみじみ実感しました。
ここではマキノ家の系譜とマキノ家が支えた日本映画をテーマに概観してみましょう。
以下、番組中でとりあげられたテーマをもとに、自由勝手に当方が内容を組み立てています。番組内容を正しく反映したものでは全くありませんので、ご注意ください。

【マキノ省三】
 「日本映画の父」と呼ばれるマキノ省三(1878~1929)は、後に日活を興した横田永之助に見出され、映画製作の道に入る。尾上松之助(目玉のまっちゃん)主演の時代劇は、派手な立ち回りが好評で大評判となる。1921年には、映画製作の方向性の違いがもとでマキノは日活から独立し、マキノ映画を創設する。阪東妻三郎嵐寛寿郎市川右太衛門片岡千恵蔵らを発掘・輩出し、主演にすえた映画を次々と製作する。
 ※阪東妻三郎(バンツマ)の息子は、田村高廣、正和、亮の3兄弟。市川右太衛門の息子は、北大路欣也。
 マキノ省三の有名な言葉に「1スジ(シナリオ)、2ヌケ(映像)、3動作(演技)」がある。これはマキノの映画作りの本質を言い当てているとされる。
 マキノ省三の晩年は不遇であった。資金面で苦境にあったマキノ映画を立て直すために、大スターを揃えて製作した起死回生の「実録忠臣蔵」であったが、徹夜でフィルム編集をしていたマキノに睡魔が襲い、フィルムが裸電球と接触して引火し家屋が全焼。辛うじて残ったフィルムだけで映画を公開したが、反響思わしくなく、失意のまま翌年に死去する。

【マキノ雅弘】
 マキノ省三の長男であった雅弘は、「浪人街」「蹴合鶏」「崇禅寺馬場」などの時代劇を製作監督した。マキノ雅弘の映画、特に「浪人街」は、奔放に生きる若者たちの姿を描き、時代劇という形をとりながらも、今の時代をそこに描いているという点が特徴的で、好評を博した。
 同時代の天才監督たちには、伊藤大輔、稲垣浩伊丹万作山中貞夫らがいる。伊藤大輔の代表作には人間の情念がこめられた「長恨」がある。
 山中貞夫はマキノ門下の監督で、戦時下の暗い時代背景にし、無理心中をテーマにした「人情紙風船」という作品がある。山中はその後召集されて戦地で病死し、再びメガホンをとることはなかった。その従軍日記には「人情紙風船が遺作だとちとさびしい」とか「よい映画をこさえてください」と後人に託すコメントなどがあり、映画への想いを断ちがたく悲痛な叫びが聞こえてくる。
 伊丹万作は、伊藤大輔のもとで脚本を書いていたが、後に、「国士無双」、「赤西蠣太」などの作品を残した。万作の子、伊丹十三も俳優から転じて、のちに映画監督となる。

【マキノ光雄】 
 マキノ省三の次男。戦時下において「国策映画」「戦意高揚映画」など国家政策による映画が統制が厳しくなるなかで、満州では「満州映画会社(満映)」が設立され、自由な気風のもとで映画製作ができるとあって、映画人はこぞって満州を目指した。光雄もプロデューサーとして活躍し、大スターとなった李香蘭を抜擢・起用した。戦後になっても、内田吐夢監督ら80人は満州に残り映画製作を続け、中国に映画製作を伝授したが、後に帰国した。

 戦後高度成長期時代と並行して、映画産業は空前の活況を呈するが、テレビの台頭により衰退の一途をたどることとなる。そんな映画産業華やかなりし時代には、黒澤明「羅生門」、溝口健二「雨月物語」、吉村公三郎「源氏物語」、衣笠貞之助「地獄門」などの秀作が登場し、海外でも絶賛された。

【マキノ雅彦】
 俳優津川雅彦は、マキノ省三の孫にあたり、近年マキノ雅彦という監督名で「寝ずの番」を発表。その後「次郎長三国志」が公開予定。
 マキノ雅彦氏は伊丹十三監督作品10本中9本に出演し、伊丹監督にしごかれて真の役者になったと述べている。計算しつくされた演出など、伊丹監督を尊敬し、伊丹路線を継承するマキノ雅彦氏の今後の活動が大いに楽しみ。
 マキノ雅彦氏のインタビューはこちら
 (特に「真の役者になれたのは伊丹十三さんのおかげ」の項参照)

 日本映画で一番好きな監督は?と問われたら、当方は迷わず「伊丹十三」と答えます。それ以外は少し考えてから、黒澤明、小津安二郎、周防正行、市川昆と答えるでしょうか。「たんぽぽ」とか「スーパーの女」なんか、本当にまったくどうでもいいくらいつまらないテーマ。それがこの伊丹十三監督にかかるとドキドキワクワクするスリルと迫力満載の超娯楽作になってしまうんですから!

伊丹監督の訃報を聞いたときは本当にショックでした(T_T)
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テーマ:邦画
ジャンル:映画
宮本輝 人生の歩き方 4回(了)
2008年04月13日 (日) | 編集 |
第4回 50を過ぎた情熱

【人間の業と母の死】
母は晩年に2度目のアルコール依存症となった。「好きなだけ飲み」と言うとあっという間に8合飲んだ。母を座敷牢のようにして軟禁し、攻防に疲れた頃ハタと止まった。人はそれぞれに「業」をもっている。悪い業が切れるとき闘いがあるものだと宮本輝は言う。

平成3年母が亡くなったとき、宮本は「突然行列の先頭に押し出されたような気分」(井上靖の言葉)になった。これからはすべて自分の責任で生きていかなければならないという自覚という意味で、当方はこのしみじみとした実感を受け止めました。奥行きのある言葉ですね。

【50を過ぎた情熱】
宮本は「50を過ぎた人の情熱しか信じない」という言葉の意味を早くから考えてきた。そして、50歳を迎えたとき、クマラジュウの跡を追うことを決意して西安からイスラマバードまでの6700kmを旅した。クマラジュウは50歳まで幽閉され、50にして初めて自分のやりたい仕事をすることができた。その跡を追ったわけである。

「人生何が起こるかわからない」「よくあの時間違った方向へ行かなかったな」と思うことがある。しかし、人生何一つ無駄なことはない。あのとき思い通りに行かなくてよかった。それこそが宝物である。というのが、宮本の生きてきた実感である。

【作家・宮本輝
「宮本ってのは悪をかけない作家だ」という評論家がいる。しかし宮本は、それは私の仕事ではないと信じている。心根の豊かな清潔なもの、言葉にはできない深いもの、水だと思って飲んだら血だった。そんな文章を目指していると宮本は語る。人間の営みがあるだけの水のような小説を読んで、ある化学反応を起こす。「こんなすごいことが秘められていたのか」という文章を目指し続けていると言う。

日々の何の変哲のない日常にこそ大きな喜びや悲劇が潜んでいるという意味で当方は理解しました。営々とした毎日に私たちはもっともっと深く感じ、涙すべきなのかもしれません。

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テーマ:NHK教育
ジャンル:テレビ・ラジオ
2007 心に残るN響コンサート ベスト10
2008年03月26日 (水) | 編集 |
3/23(日)のN響アワーで、昨年N響のコンサートで「最も心に残ったN響コンサートのベストテンが発表されました。定期会員による投票をもとにしたデータです。結果は次の通りでした。

第1位 ネルロ・サンティ 11月Aプロ プッチーニ「ラ・ボエーム」
第2位 アンドレ・プレヴィン 9月Aプロ モーツァルト「交響曲第36番」他
第3位 アンドレ・プレヴィン 9月Cプロ ラヴェル「ダフニスとクロエ」他
第4位 アラン・ギルバート 12月Aプロ ベートーヴェン「英雄」他
第5位 ウラディーミル・アシュケナージ 6月Cプロ ベートーヴェン「交響曲第6・7番」他
第6位 アンドレ・プレヴィン 9月Bプロ ラフマニノフ「交響曲第2番」
第7位 ネヴィル・マリナー 10月Bプロ ブラームス「交響曲第4番」
第8位 シャルル・デュトワ 1月Aプロ サン・サーンス「交響曲第3番」
第9位 シャルル・デュトワ 1月プロ プロコフィエフ 「カンタータ:アレクサンドル・ネフスキー」
第10位 ウラディーミル・アシュケナージ 2月Cプロ チャイコフスキー「交響曲第2・5番」

 第1位のネルロ・サンティは、池辺晋一郎さんの評によれば、N響がオペラを演じることが少ないので、その点も評価されたのではとのことでした。当方もオペラは未熟そのものなので、じっくり聴く良い機会でした。ソリストとの間合いの取り方も上手で、聴かせ上手ですよね。
 第2位以下では、2・3・6位にアンドレ・プレヴィンが選ばれ、人気の高さを実証していますね。9年ぶりという本当に待望のコンサートだったことも後押しする要因だったでしょうね。第2位のプログラムは前回の2007 N響ソリスト ベスト10での第1位に続いての高評価ですね。
 4位のアラン・ギルバートは当方も投票しました。切れ味鋭くメリハリのある斬新な「エロイカ」でした。指揮台に上るなり始まるのもとてもカッコよかった!ニューヨークフィルの常任指揮者として今後の活躍が大いに期待される指揮者です。

 これからのN響定期公演も非常に楽しみです。アンドレ・プレヴィンを聴きたくてN響定期会員(Aプロブラム)になった当方としては、高評価の結果で、改めて「会員になってよかった」と思いました。またぜひ招聘して頂きたいです!

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テーマ:クラシック
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宮本輝 人生の歩き方 3回
2008年03月22日 (土) | 編集 |
第3回 父との約束

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【愛媛県南宇和郡愛南町】
宮本輝が幼少期を過ごしたのが愛南町。体が弱かった宮本の転地療養も兼ねて大阪から引っ越したと「流転の海」にも記されています。父は町では有名で「宮本の大将」と呼ばれ、飲み屋でもだれかれ構わず説教を始め、正論を説く癖があったそうです。

【母への暴力】
宮本の父熊市は、母に暴力をふるう悪癖があった。板ばさみになった宮本は、心底悩み、母を守ろうという気持ちから、父が敵のような存在になってきたそうです。母への暴力ほど子を傷つけるものはないとしみじみ述懐していました。

【父との別れ】
大学生のときに長年姿を見せなかった父がひょっこりバイト先に現れた。
「ちょっと飲もう。お前金あるか」と言う父に連れられて屋台で熱燗とおでんを。
父は次のようにしみじみと語った。
「俺はお前を人より秀でたものを持った人間だと思ってきた。いつ花開くかと思ってきた。そんな過大な期待はさぞかしお前にとって辛かったろう。何にも持っていないお前に過大な期待をかけた父をどうか許してくれ」と。

宮本はそのときただただ悲しかった。「父に申し訳ない」という気持ちでいっぱいだった。

ところが、しばらくして宮本は「待てよ。親父の奴、大芝居打ちやがったな!一発喝を入れてやろうとして父が考えた演出だったのではとハタと気付いた。」いつかみとけよ。畜生見返してやろうと奮起させる目的だったのではと今でも感じているそうです。

【父の非業の死】
父は宮本との最期の対面から2ヶ月後に脳梗塞がもとで精神病院にて死去。
宮本は、「父はなんでこんなみじめな死に方をしなければならかったんだろう」と考えた。
「そこには何らかの原因があったはず。運っていうものが切れた瞬間に精神病院へのレールに乗ってしまったのではないか」と。「女をなぐるような男には因果の理法から罰が当たったのではないか。」「妻を不幸にさせた瞬間こそがそれである」という宮本の話には胸を打たれました。

父親像を冷静に分析する宮本ですが、一方では父親のことが大好きなのだと思います。宮本が愛南町の一本松で星を見上げる姿には、父へのあふれんばかりの畏敬の念・敬慕の念がこめられているように感じ取れました。

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テーマ:教育テレビ
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宮本輝 人生の歩き方 2回
2008年03月06日 (木) | 編集 |
第2回 流転の歳月 俺は生きていられるのか

【学生時代とアルバイト】
昭和41年宮本輝は追手門大学に入学。テニスに夢中になる。(関連小説「青が散る」)。入学中に父が多額の借金を背負ったまま病死し、宮本は経済的にかなり厳しくなりアルバイトに専心せざるを得なくなる。深夜の道路工事、早朝の青果市場、ホテルのベルボーイと数多くのアルバイトをこなした。

夏にアイスクリームの冷凍倉庫でアルバイトをしたときのエピソード。夏涼しいだろうと半ば軽い乗りで、ゴムサンダルにバミューダショーツという服装で行ったところ、手鍵をもって兄ちゃんがいて、

兄ちゃん:「お前何しに来たんや」
宮本:「働きに来ました」
兄ちゃん:「どんな仕事か知ってんのんか」
宮本:「アイスクリームを出し入れする仕事です」
兄ちゃん:「まあええわ、そのまま入れや」

その後15分もすると、手足が凍りついたようになって動かなくなり、
宮本:「僕、もうやめさせて下さい」
兄ちゃん:「15分やって金払えへんぞ」
と叩き出された。身動きできずポストが倒れるような感じでドタと道に倒れた。

また、お金の節約のため苦労した、今の奥さん(当時は彼女)とのこんなエピソードも
彼女はカレーうどん、宮本はごはんだけを学食で注文する。彼女はうどんだけを食べて、残りのカレーのおつゆを宮本に渡し、宮本はおつゆをご飯にかけて食べていた。ついつい彼女はおつゆを飲んでしまってほとんど残っていないこともあったそうです。

昭和45年、23歳のとき、宮本は広告会社にコピーライターとして就職。会社勤めを続ける中、ある日突然パニック障害にかかった。電車に乗れず、狭いところ、人ごみが苦となった。
自分で自分の命を絶ってしまう恐怖にも苛まれ、何とか自分で治そうとした。

【小説家への転身】
ある日の夕立。雨宿りに地下街の本屋で文芸雑誌の巻頭小説を立ち読みした。
賢そうなことは書いてある。難しそうな言葉は駆使してある。
でも「だからどうなんだ」「こんなことご大層に教えてくれなくてもヤマほど見てきたで」、
「これが日本を代表する作家の短編か?」
と感じた宮本は、自ら作家になることを突然決意する。
公衆電話で妻に「作家になるから会社を辞める」と告げると、妻はあっさり「やってみたら」との答え。

1年で芥川賞をとる予定で、行ったことのないタイをテーマにした小説で新人賞に応募するも落選。
作家池上義一に作品を送ったところ、
池上:「君は天才や。今からすぐ僕の所へ来なさい。」
   と呼び出された宮本はすぐに駆けつけた。
池上:「だけどな。ここからここまでがいらんねん」と小説の冒頭から中盤までを鉛筆で消された。
宮本:「何するんですか。これ書くのに4日かかったんです。これが一番気に入っているんです。」
池上:「そう言うやろと思った。何十万人作家を目指す人、皆が同じことを言うだろう」
    「しかし、これがわからないと、永遠に作家になんかなられへんよ。」
   宮本はもう一度冒頭部なしで小説を読み返してみた。
宮本:「すみませんでした。」
池上:「名文を書こうとしているのが間違いなんだ。これで君は天才になったよ。」
   と言われて、全部捨てて書き始めたのが「泥の河」。これ以上削れないところまで全部省いた。
その結果、昭和52年太宰治賞「泥の河」 昭和53年芥川賞「蛍川」と立て続けに文学賞を受賞する。

◆人の転機とは本当に不思議なものですね。こんなに思い切った決断を下したとき、黙って背中を押してくれる奥さん・・・。女房の鏡ですよね。カレーうどんのお話も、糟糠の妻という印象を受けますね。

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天明の飢饉江戸を脅かす その時歴史が動いたvol.313 
2008年02月28日 (木) | 編集 |
長谷川平蔵の提案した人足寄場の意義と功績について考察した番組。

 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改長谷川平蔵は、無宿人の更生・授産施設として人足寄場を提案・設置したことでも知られている。

 天明時代の江戸は、天明の飢饉により、食いぶちを求めて地方から江戸に逃れてきた無宿人であふれていた。無宿人とは住所不定で宿のない人のことであり、彼らは江戸で職に就こうとしても身元引受人がいない以上、就職もままならず、物乞いとなるか、犯罪に手を染めるかしか選択肢がなかった。江戸の強盗・殺人などの犯罪の約8割は無宿人によるもので、江戸の町は、治安が極度に悪化し、社会不安が募っていた。
 1787年に老中に就任した松平定信は、無宿人を地方に戻す人返しを考えたが、国元の治安の悪化を懸念大名たちが、これに強く反発したことから頓挫する。そんな折、無宿人の救済策として、長谷川平蔵は人足寄場の設置を提唱する。
 1790年2月、人足寄場は隅田川河口の石川島に作られ、大工、鍛冶、桶作り、縄細工、元結などの技能を習得することができた。最初の出所者は設置3ヶ月後に14人。社会復帰のための職業道具も支給されている。
 この人足寄場制度は、無宿人の授産・更生施設として発展的意義をもち、地方にも波及するとともに、幕末まで続いた。

 ◆長谷川平蔵は、無宿人をただ取り締まるのではなく、職を与え社会復帰まで配慮したという点が偉大な点であり、番組でも強調されていました。実際、職を離れた後も、無宿人の身元保証人として尽力し、奉公先を斡旋していたとのことでした。平蔵が頭を深々と下げ奉公先を訪ね歩く姿が目に浮かびます。

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宮本輝 人生の歩き方 第1回
2008年02月27日 (水) | 編集 |
第1回 押入れの中の青春

宮本輝昭和22年、父熊市49歳、母雪恵36歳の長男として神戸にて生まれる。父は自動車部品製作会社の社長であった。

昭和29年洞爺丸台風の折、大阪の父の会社の倉庫が水没し、商品が全滅。以来父の会社の経営が深刻となり、昭和31年家族で富山へ移住。父は中古車販売に失敗し大阪へ戻り、母子で富山に残される。母は呼吸できないくらいの重症の喘息に苦しんだ。そのときの富山の雪は子供心に「鉛色の雪」と感じた。

昭和32年に大阪へ戻ると、貧しい長屋に住む尼崎の叔母の家に預けられる。失業者や結核患者などの多い極貧地区で見たものは、突然訪れる人の死の理不尽さやぎりぎりの生活だった。また、父母と一緒に暮らしたいという寂しさも募った。

昭和33年には、両親のもとに戻ることができたが、父が途中で放り出した駐車場管理の仕事を母が行ったが、朝6時から夜11時までという激務などの心労が重なり、母はアルコール依存症になる。父は常々、母の酒は暗い酒、「飲むと死にとうなる女」と称していた。

学校から帰ると母はいない。尼崎の叔母のところに行って、大量の睡眠薬を飲んだらしい。そのとき宮本が感じたのは、母が薬を飲んだということは、ある意味「僕を捨てた」ということ。踏みとどまる部分を超えた以上、「運良く助かったとしても母は死んだのだ」ということだったそうです。

宮本は母の病院に行くのを拒み、押入れに隠れて井上靖の『あすなろ物語』を読んでいた。父が探しに来て、母が助かったことを知り、安堵の気持ちから瞬間的に大きな転機が訪れたのだそうです。母が助かった瞬間、小説の中身が胸に切々と入ってくる、沁み入ってくる、全く違った感受性をもって小説を読むことができ、「文学は何てすばらしいんだろう」と感じたそうです。その後中之島図書館の本を全部読もうと決意し、片っ端から本を読みふけったそうです。

宮本輝は私の最も敬愛する作家の1人です。流転の海のシリーズも強い感銘とともに読みました。上記の内容は「流転の海」でも触れられていた部分とも合致していますね。お話もとても上手で氏の優しさ・深さに引き込まれていくような快感を覚えました。「あすなろ物語」を私も中学生の頃読み、今でも強い印象が残っていますが、氏の文学的ルーツがここにあったとすれば、井上氏の作風との接点に何となく首肯する部分がありそうです。

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幻の新橋駅 そのとき歴史が動いたvol.311
2008年02月23日 (土) | 編集 |
都会の地下に夢をもとめて」 地下鉄の父 早川徳次(のりつぐ)
 
 昭和2年12月30日、わが国初の地下鉄が浅草-上野間を走った。東京地下鉄道という民間会社が開設したものである。ところが、東京高速鉄道(五島慶太:東急)と新橋での相互乗り入れにまつわる抗争の中、昭和15年、国の半ば強引な介入策により両者の地下鉄会社が、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡されることになり、2つの地下鉄民間会社は地下鉄事業からの撤退を余儀なくされる。
 このときの抗争の遺物が、先日一般公開された「幻の新橋駅」だったんですね。
 番組では、早川には先見の明があったという点が、大きく取り上げられていました。

1)先を見越した安全性⇒銀座線に残るトンネルは、あと100年使える頑丈さ・安全さをもつ
2)6両が停車できるホームの広さ⇒快適でゆとりのある地下鉄
 ※ところが、五島慶太の東京高速鉄道では3両停車できるホームで考えました。この見解の違いにより抗争が生じ、結果経営権を剥奪されたことは、早川の理想像が奇しくも災いした結果となっています。

 まさに「地下鉄の父」と称されるべき人物だったんですね。
 最初に開業した時の駅は、浅草田原町稲荷町上野の4駅だったんですね。ここを通過するときはぜひ早川氏に思いを馳せましょう。

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